2015年02月24日
石黒由美子女史講演 「夢を諦めない」第四章
第四章
シンクロナイズドスミングへの挑戦の始まり
(頂点のオリンピックという夢に向かって)
シンクロナイズドスミング。
シンクロには、芸術的な美しさがあるが、
実際には、うまく泳ぐことが堪能であるからこそのスポーツ。
うまく泳げるからこそ、芸術的に水の中で舞うことが出来る。
音楽や仲間と、シンクロさせることが出来る。
スイミング、つまり泳ぐことが得意でないと、
参加すら出来ない。
上手に泳ぐこと(スイミング)が出来なければ、
周囲とシンクロ出来ない。
プールの中で激突したりすれば、骨折することもある。
事故の後遺症は、勉学への支障にとどまらなかった。
運動には致命的な、三半規管に問題が生じてしまっており、まっすぐ泳ぐことすら出来なかった。
当然、プールでは、いつも隅に追いやられる。
居場所は、なかった。
中学校一年生の時だった。
しかし、母だけは、違った。
「あなたは出来るよ!」
「大丈夫!!!」
「すごいね!」
と言い続けてきた。
しかし、巧く出来ない。
そして、阻害されている。
腹を立てて、
励ましてくれる母に向かって、
「何も出来ない!!!」と怒りをぶつけ、不平不満を言っていた。
すると母は、
「事故を起こしたから、今は出来ないんだよ。」
そして夢について、話し始め、
「夢があるでしょ。オリンピックに20歳に出たいなら、逆算して、スケジュールを立てよう!」
そう、前に向かって視界を開けてくれた。
スケジュールを考えてみた。
”本当にオリンピックに出場するには?”
”どうしたらいいい?”
考えてみた!
具体的な目標に対して、
達成するために具体的に考えてみた。
すると、時間がないことに気がついた!
”アテネまで、あと少ししかないじゃん!”
”どうしよう?!”
母は言った。
「気づいたときからがスタート。気がついたときから始めたらいいんだよ。」
”そうか!”
いろんな成功者の自伝などを読みあさった。
そして、世界の成功者の、共通している事実を発見した。
「成功者は、朝に勝っていた。」
朝、5時に起きるようになった。
”夢のためになら、ほんの数年頑張ればいいんだ!”
”夢のために、やるぞ!!!”
一方、中学校は、登校拒否気味となった。
小学校のときは、分かりやすいいじめだったが、
中学校でのいじめは、
無視、
だった。
シンクロのスクールに行っても、無視だった。
自分にだけは、ルールや決まり事が伝わることがなく、
コーチに叱られたり、外されたりした。
学校に行こうと思うと、お腹が痛くなった。
母が電話押して、学校に休む旨を伝えると、
なぜか、
突如、
腹痛が治った!
すると母は、
怒ることなく、
言った。
「じゃあ、由美ちゃん、ご飯食べれるね!美味しいもの食べに行こう!!!」
そんな日は、美味しいランチに連れて行ってくれた。
そんな日々が続き、
名古屋中の美味しいランチを食べた。
母は、常に、「いいんだよ!」と否定することなく、受け入れてくれ続けていた。
石黒家は、母子家庭であった。
母は、そんな家を支えるために、
朝は新聞配達、
昼はヨシケイ(家庭用食材)の食品配達、
夜は錦(名古屋の歓楽街)のお店の皿洗い。
貧乏であった。
玄関に布団がしいてあるほどであった。
理由は、母が帰宅すると、玄関で寝てしまうほど疲れ果てていたから。
夢ノートは、
書き続けた。
オリンピックに出る。
自伝を書く。
学年最下位だったけど、名古屋大学に入学する。
などなど。
夢を叶えるために、いろいろと調べた。
どうしたら、いいのか。
オリンピックに出るためには?
人を勇気づけることが出来るには?
名古屋大学に入学するには?
夢を追いかける毎日から逃げないようにするために、
毎日の一個一個のことから、逃げないようにした。
一つ一つ、小さなことから逃げず、向かって行った。
夢を実現するためには、たった10年頑張るだけでいい。
そう考えた。
長い人生、そのくらい頑張ることくらいは、出来ないことではない。
家の床に穴が空く(本当に空いた!)ほどボロ屋(おじいさんが造った家)に住んでいたくらい貧乏だったが、
シンクロがあまりにうまく行かないので、
母に、ビデオカメラを買って!とせがんだ。
見て、練習しようと考えたのだ。
今考えても、貧乏な中、どうやって工面したのかわからない(汗)
母は、買ってくれた!
ビデオを手に入れて、自分の姿を初めて見た!
衝撃的だった!
美しく舞っている自分だと思っていたが、現実は、
目も当てられないほどのひどいものだった。
ゴキブリが水に溺れているように、醜いモノだった。
それでも母は、「そんなことない、大丈夫、大丈夫!」と励ましてくれた。
いつも通り。
母はいつも、
「出来るよ!」と声をかけ、信じて支え続けてきてくれた。
母は、自分の希望を常に叶えてきた。
プロのスミングスクールに通いたい!
オリンピックに出るためには、まずはスイミングだ!
この望みも叶えてくれた。
母とともに、名古屋中のスミングスクールを回った。
「オリンピックに出るために、水泳を強化してください!」
行くとこ、行くとこ、まともに相手にされなかったが、
一件、受け入れ先があった。
朝5時から、朝練をやってくれている、プロのスイミングスクール。
その先生は、全てのスクールに断られていた中、「よし、やろう!」と受け入れてくれた。
母と二人三脚の、より一層の努力の日々が始まった。
オリンピック選手は、通常、小学校のころから、頭角を現すもの。
それ以降の成功は、極めて稀で、奇跡的なもの。
しかし、諦めない努力が道を開いた!
二人三脚の努力が報われて、
高校2年生の時に、なんと全国大会準優勝を成し遂げた。
そして、オリンピック選抜のBチームに入り、
アテネオリンピックの強化代表選手になった!
高校生になると、
中学校までと異なり、友人も出来た!
大学受験も大きな夢の一つだった。
名古屋大学への入学は、オリンピックと並ぶ大きな夢の一つであった。
しかし、強化合宿が受験と重なってしまった。
鬼コーチのもと、厳しい合宿中だったので、とても言い出すことが出来ず、
残念ながら受験出来なかった。
しかし、国立の愛知教育大学に見事合格した!
九九すら出来なかったのに!!
夢がいろいろと叶ってきた!!!
その時、慢心してしまい、スキが出来ていた。
オリンピック選考の結果、
選抜9人に残れなかった。
なんと、10人目だった。
挫折した。
そして、
ぐれた。
第五章につづく・・・
シンクロナイズドスミングへの挑戦の始まり
(頂点のオリンピックという夢に向かって)
シンクロナイズドスミング。
シンクロには、芸術的な美しさがあるが、
実際には、うまく泳ぐことが堪能であるからこそのスポーツ。
うまく泳げるからこそ、芸術的に水の中で舞うことが出来る。
音楽や仲間と、シンクロさせることが出来る。
スイミング、つまり泳ぐことが得意でないと、
参加すら出来ない。
上手に泳ぐこと(スイミング)が出来なければ、
周囲とシンクロ出来ない。
プールの中で激突したりすれば、骨折することもある。
事故の後遺症は、勉学への支障にとどまらなかった。
運動には致命的な、三半規管に問題が生じてしまっており、まっすぐ泳ぐことすら出来なかった。
当然、プールでは、いつも隅に追いやられる。
居場所は、なかった。
中学校一年生の時だった。
しかし、母だけは、違った。
「あなたは出来るよ!」
「大丈夫!!!」
「すごいね!」
と言い続けてきた。
しかし、巧く出来ない。
そして、阻害されている。
腹を立てて、
励ましてくれる母に向かって、
「何も出来ない!!!」と怒りをぶつけ、不平不満を言っていた。
すると母は、
「事故を起こしたから、今は出来ないんだよ。」
そして夢について、話し始め、
「夢があるでしょ。オリンピックに20歳に出たいなら、逆算して、スケジュールを立てよう!」
そう、前に向かって視界を開けてくれた。
スケジュールを考えてみた。
”本当にオリンピックに出場するには?”
”どうしたらいいい?”
考えてみた!
具体的な目標に対して、
達成するために具体的に考えてみた。
すると、時間がないことに気がついた!
”アテネまで、あと少ししかないじゃん!”
”どうしよう?!”
母は言った。
「気づいたときからがスタート。気がついたときから始めたらいいんだよ。」
”そうか!”
いろんな成功者の自伝などを読みあさった。
そして、世界の成功者の、共通している事実を発見した。
「成功者は、朝に勝っていた。」
朝、5時に起きるようになった。
”夢のためになら、ほんの数年頑張ればいいんだ!”
”夢のために、やるぞ!!!”
一方、中学校は、登校拒否気味となった。
小学校のときは、分かりやすいいじめだったが、
中学校でのいじめは、
無視、
だった。
シンクロのスクールに行っても、無視だった。
自分にだけは、ルールや決まり事が伝わることがなく、
コーチに叱られたり、外されたりした。
学校に行こうと思うと、お腹が痛くなった。
母が電話押して、学校に休む旨を伝えると、
なぜか、
突如、
腹痛が治った!
すると母は、
怒ることなく、
言った。
「じゃあ、由美ちゃん、ご飯食べれるね!美味しいもの食べに行こう!!!」
そんな日は、美味しいランチに連れて行ってくれた。
そんな日々が続き、
名古屋中の美味しいランチを食べた。
母は、常に、「いいんだよ!」と否定することなく、受け入れてくれ続けていた。
石黒家は、母子家庭であった。
母は、そんな家を支えるために、
朝は新聞配達、
昼はヨシケイ(家庭用食材)の食品配達、
夜は錦(名古屋の歓楽街)のお店の皿洗い。
貧乏であった。
玄関に布団がしいてあるほどであった。
理由は、母が帰宅すると、玄関で寝てしまうほど疲れ果てていたから。
夢ノートは、
書き続けた。
オリンピックに出る。
自伝を書く。
学年最下位だったけど、名古屋大学に入学する。
などなど。
夢を叶えるために、いろいろと調べた。
どうしたら、いいのか。
オリンピックに出るためには?
人を勇気づけることが出来るには?
名古屋大学に入学するには?
夢を追いかける毎日から逃げないようにするために、
毎日の一個一個のことから、逃げないようにした。
一つ一つ、小さなことから逃げず、向かって行った。
夢を実現するためには、たった10年頑張るだけでいい。
そう考えた。
長い人生、そのくらい頑張ることくらいは、出来ないことではない。
家の床に穴が空く(本当に空いた!)ほどボロ屋(おじいさんが造った家)に住んでいたくらい貧乏だったが、
シンクロがあまりにうまく行かないので、
母に、ビデオカメラを買って!とせがんだ。
見て、練習しようと考えたのだ。
今考えても、貧乏な中、どうやって工面したのかわからない(汗)
母は、買ってくれた!
ビデオを手に入れて、自分の姿を初めて見た!
衝撃的だった!
美しく舞っている自分だと思っていたが、現実は、
目も当てられないほどのひどいものだった。
ゴキブリが水に溺れているように、醜いモノだった。
それでも母は、「そんなことない、大丈夫、大丈夫!」と励ましてくれた。
いつも通り。
母はいつも、
「出来るよ!」と声をかけ、信じて支え続けてきてくれた。
母は、自分の希望を常に叶えてきた。
プロのスミングスクールに通いたい!
オリンピックに出るためには、まずはスイミングだ!
この望みも叶えてくれた。
母とともに、名古屋中のスミングスクールを回った。
「オリンピックに出るために、水泳を強化してください!」
行くとこ、行くとこ、まともに相手にされなかったが、
一件、受け入れ先があった。
朝5時から、朝練をやってくれている、プロのスイミングスクール。
その先生は、全てのスクールに断られていた中、「よし、やろう!」と受け入れてくれた。
母と二人三脚の、より一層の努力の日々が始まった。
オリンピック選手は、通常、小学校のころから、頭角を現すもの。
それ以降の成功は、極めて稀で、奇跡的なもの。
しかし、諦めない努力が道を開いた!
二人三脚の努力が報われて、
高校2年生の時に、なんと全国大会準優勝を成し遂げた。
そして、オリンピック選抜のBチームに入り、
アテネオリンピックの強化代表選手になった!
高校生になると、
中学校までと異なり、友人も出来た!
大学受験も大きな夢の一つだった。
名古屋大学への入学は、オリンピックと並ぶ大きな夢の一つであった。
しかし、強化合宿が受験と重なってしまった。
鬼コーチのもと、厳しい合宿中だったので、とても言い出すことが出来ず、
残念ながら受験出来なかった。
しかし、国立の愛知教育大学に見事合格した!
九九すら出来なかったのに!!
夢がいろいろと叶ってきた!!!
その時、慢心してしまい、スキが出来ていた。
オリンピック選考の結果、
選抜9人に残れなかった。
なんと、10人目だった。
挫折した。
そして、
ぐれた。
第五章につづく・・・
Posted by m s j 松下自動車 at 00:00
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