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2015年06月02日

ビジネス用語入門講座 TMAコンサルティング 浅沼宏和先生

いよいよ、6月。
暑い日が続きますが、もうすぐ入梅ですね。

そうそう、明日は、新型ラパンの発売日!
注文しておいた新型ラパンの試乗車、明日はこないだろうなー^^

ロードスターも間もなくやって来るの(予定)ですが、
梅雨ど真ん中で、屋根、開けられなくなりそうです(笑)

さて、本日は、地元浜松の誇る、
「日本で一番使えるドラッカー」を教えてくださる大先生(といっても、とっても気さく!)、
TMAコンサルティングの浅沼宏和先生の講演に出席して来ました。

著書は、多数あり、とっても分かりやすく、目から鱗です!!!
・世界一やさしいドラッカーの教科書
・スターバックスの最強戦略
・サイバーセキュリティ 

↑リンク先のAmazonで購入出来ますよ!

よく、同業種の方々に、msj松下自動車の経営についていろいろと質問されることがありますが、
実は、浅沼先生の著書をお読み頂ければ、その答えがあります。
msj松下自動車の経営においても、浅沼先生の教えが、
本当にたくさん生きているのです!!!
ぜひ、同業者の皆さんだけでなく、異業種の方や、経営者でない方々もお読み頂けたらと思います。


2時間ノンストップの講演は、
本当におもしろく、体感時間は1時間くらいでした!

いつものshizugin shipやスズキ副代理店大会などの講演は、テキストを起して公開していますが、
あまりのスピードと濃い内容だったので、テキストをまとめきれないため、今回は見合わせます。

ですので、是非、是非、著書をお読み下さい!
難しいことを実に分かりやすく説明してくださる浅沼先生の著書は、仕事だけでなく、普段の生活に置いても本当に役に立ちます!
ぜひ、ご拝読下さいませ^^b

記念撮影^^

テキストの代わりに、
こちらの短い動画で、浅沼先生の講義の一端を見ていただけたらと思います。


  


Posted by m s j 松下自動車 at 23:35講演

2015年02月26日

石黒由美子女史講演 「夢を諦めない」最終章

最終章

 (信じる力の偉大さ)



夢・・・。

夢を記さなければ・・・、

夢を思い描かなければ・・・、

その夢を、

実現することは、
出来ない。


信じるということ。
とても強い、思い。


オリンピックは、終わった。

愛知教育大学では、
努力に努力を重ねて、
幼稚園から高校までの教員免許を取得した。

憧れていた名古屋大学には、入学出来なかった。
しかし、教育者としての道は開けた。

夢には、時差がある、と言った。

2015年からは、
神戸大学でいじめ問題に関する第一人者のもと、
研究をしている。

かつていじめを受け、心の傷を負い、
だからこそ、見えるもの、理解出来ることがある。

夢ノートは、朝晩、記している。
夢を見続けること。
夢には、時差がある。

道は開かれてきている!

研究者として、努力を積み重ねることが出来るのは、
愛知教育大学で努力したから、開けた道。
研究者として、夢を見続け、近づくことが出来る夢がある。
そう、いずれは、かつて、夢見た、名古屋大学に、
学生としてではなく、
教育者として行くことが出来るかもしれない!!!
そんな夢が、道が、開かれてきた。

数々の苦しい思いや挫折、
そして夢を描き、
夢が叶い続けている日々の中から、
近頃、生涯の夢を見つけた。

それは、
「信じることの素晴らしさを伝えていくこと。」
それが、
生涯の夢となった。

誰でもいいので、
一人でも、信じてくれる人がいればいい。

その子の未来を信じて行くことが大切。

一人が変われば、その場の空気が変わる。

変えることが出来るのは、誰か?
誰でもいいのだ!
その人の未来を信じて接することが、どれほどの勇気を与えることができるのか。
信じるという、
強い、思い。

信じられること、
信じること、
その力を、知っている。

諦めなければ道は必ず開かれる!!!

信じてくれる人がいるということ!!!

人にとって本当の支えとは、
どんなときであっても、
いつだって、
「信じてくれている!」
ということを感じられる状況があるということ。

今がダメでも、
明日がある。

明日のために、
信じて進む。

信じる明日のために、
だから今、
何をするか!

信じる力。
それが、大切。









「質疑応答」

msj 松下自動車
「これまで、本当に、苦しかったはず。
挫折感を味わい、ぐれたこともあるとのことですが、
こうして、いくつもの苦難を乗り越えてこられた。
その道は、並大抵ではなく、
本当に苦しく辛い道程だったと思います。
質問させてください。
これまで、
心が折れたり、
負けたりすることはなかったのですか?
もしあったなら、その時、どうしたのですか?」

石黒女史
「私は、鉄人ではありません。
何事にも負けない、鋼の人間ではありません。
普通に、しょっちゅう、心が折れていました。
負けてばかりでした。
そんな時に、
必ず、
母が、
信じてくれていて、
声をかけてくれていて、
勇気づけていてくれました。

信じてくれる人がいると言うこと、
それは、本当に素晴らしいことです。」



以下蛇足・・・

「講演後の所感、あるいは感謝の言葉」

石黒女史の過酷な人生に、
講演をとおして触れることが出来たことは、
本当に僥倖でした。

15年前に倒産寸前の会社を再建するために、
銀行員を辞め、
整備士に転身し、
JCAアカデミーに入学し、
苦しみ、歓び、乗り越えてきた15年間。

15年前の始まりがあり、
15年間の苦しみがあり、
15年間の学びがあったこと。
もちろん、日々に歓びも。
こうした経験は、
この素晴らしい石黒女史とお母様の生き方に触発されるために、
積んで来た思います。

本当に、素晴らしく、美しい出会い。

石黒女史の講演は、
私のこれまでの人生の蓄積の、大きなティッピングポイントになりました。

今は、日々、この僥倖のパラダイムシフトに感謝し、
人生と夢を思い描くことを始めています。
本当に、ありがとうございました。

  


Posted by m s j 松下自動車 at 00:00講演

2015年02月25日

石黒由美子女史講演 「夢を諦めない」第五章

第五章
挫折、そして復活


本当にぐれた。

見事な転落。
あげく、
シンクロナイズドスミングからも離れてしまった。

前向きな母親が一番嫌いになった。
何て言ったって、
オリンピック選考に落選したその晩、
「由美ちゃん頑張ったねー!」と、
豪勢な晩ご飯を用意して労ってくれた。

家出した。

離婚した父親に泣きつき、家も用意してもらい、シンクロも止めた。
バイトばかり、酒浸り。
頭は、
金髪。
眉毛なし。
体重も増え、160cmの体で、
なんと、85kgに巨体化した。

毎日、死にたいと思っていた。
何もする気にならない。
やる気もない。

しかし、
そんな毎日を繰り返している中、
一人ぼっちでは、つまらない。
一人ぼっちでは、何も出来ない。
気がついた!

友人達にも救われた。
特別な人にも救われた。
何よりも母の思いに気がついた。

もう一度、オリンピックを目指すことに決めた!!!

1年半も、一線から離れていた。
トップアスリートにとっては、一線から離れることは、致命的。
ましてや、これだけの長期間のブランクは選手生命の終わりと言える。

正直言って、終わっている状況の中から始まった。

だが、
やり直そう!!!と思ったその日から、全てが変わった。
人生は、自分で作るもの。
人生は、自分のモノ。

夢には、時差がある。

自分の思い描いた瞬間に、夢が叶うとは限らない。
自分の思い描いたカタチで、夢が叶うとは限らない。
諦めなければ道は必ず開かれる!
そう信じて、夢を追いかけることが大切。

そして、努力努力の結果(アテネは逃したが)、
北京は手に入れた!!!



最終章につづく・・・
  


Posted by m s j 松下自動車 at 00:00講演

2015年02月24日

石黒由美子女史講演 「夢を諦めない」第四章

第四章
シンクロナイズドスミングへの挑戦の始まり
 (頂点のオリンピックという夢に向かって)


シンクロナイズドスミング。
シンクロには、芸術的な美しさがあるが、
実際には、うまく泳ぐことが堪能であるからこそのスポーツ。

うまく泳げるからこそ、芸術的に水の中で舞うことが出来る。
音楽や仲間と、シンクロさせることが出来る。

スイミング、つまり泳ぐことが得意でないと、
参加すら出来ない。
上手に泳ぐこと(スイミング)が出来なければ、
周囲とシンクロ出来ない。
プールの中で激突したりすれば、骨折することもある。

事故の後遺症は、勉学への支障にとどまらなかった。

運動には致命的な、三半規管に問題が生じてしまっており、まっすぐ泳ぐことすら出来なかった。
当然、プールでは、いつも隅に追いやられる。
居場所は、なかった。
中学校一年生の時だった。

しかし、母だけは、違った。
「あなたは出来るよ!」
「大丈夫!!!」
「すごいね!」
と言い続けてきた。

しかし、巧く出来ない。
そして、阻害されている。
腹を立てて、
励ましてくれる母に向かって、
「何も出来ない!!!」と怒りをぶつけ、不平不満を言っていた。
すると母は、
「事故を起こしたから、今は出来ないんだよ。」
そして夢について、話し始め、
「夢があるでしょ。オリンピックに20歳に出たいなら、逆算して、スケジュールを立てよう!」
そう、前に向かって視界を開けてくれた。

スケジュールを考えてみた。
”本当にオリンピックに出場するには?”
”どうしたらいいい?”
考えてみた!
具体的な目標に対して、
達成するために具体的に考えてみた。

すると、時間がないことに気がついた!

”アテネまで、あと少ししかないじゃん!”
”どうしよう?!”

母は言った。
「気づいたときからがスタート。気がついたときから始めたらいいんだよ。」

”そうか!”

いろんな成功者の自伝などを読みあさった。
そして、世界の成功者の、共通している事実を発見した。

「成功者は、朝に勝っていた。」

朝、5時に起きるようになった。

”夢のためになら、ほんの数年頑張ればいいんだ!”
”夢のために、やるぞ!!!”

一方、中学校は、登校拒否気味となった。
小学校のときは、分かりやすいいじめだったが、
中学校でのいじめは、
無視、
だった。

シンクロのスクールに行っても、無視だった。
自分にだけは、ルールや決まり事が伝わることがなく、
コーチに叱られたり、外されたりした。

学校に行こうと思うと、お腹が痛くなった。
母が電話押して、学校に休む旨を伝えると、
なぜか、
突如、
腹痛が治った!

すると母は、
怒ることなく、
言った。
「じゃあ、由美ちゃん、ご飯食べれるね!美味しいもの食べに行こう!!!」
そんな日は、美味しいランチに連れて行ってくれた。
そんな日々が続き、
名古屋中の美味しいランチを食べた。

母は、常に、「いいんだよ!」と否定することなく、受け入れてくれ続けていた。

石黒家は、母子家庭であった。
母は、そんな家を支えるために、
朝は新聞配達、
昼はヨシケイ(家庭用食材)の食品配達、
夜は錦(名古屋の歓楽街)のお店の皿洗い。

貧乏であった。

玄関に布団がしいてあるほどであった。
理由は、母が帰宅すると、玄関で寝てしまうほど疲れ果てていたから。

夢ノートは、
書き続けた。

オリンピックに出る。
自伝を書く。
学年最下位だったけど、名古屋大学に入学する。
などなど。

夢を叶えるために、いろいろと調べた。
どうしたら、いいのか。
オリンピックに出るためには?
人を勇気づけることが出来るには?
名古屋大学に入学するには?

夢を追いかける毎日から逃げないようにするために、
毎日の一個一個のことから、逃げないようにした。

一つ一つ、小さなことから逃げず、向かって行った。

夢を実現するためには、たった10年頑張るだけでいい。
そう考えた。
長い人生、そのくらい頑張ることくらいは、出来ないことではない。

家の床に穴が空く(本当に空いた!)ほどボロ屋(おじいさんが造った家)に住んでいたくらい貧乏だったが、
シンクロがあまりにうまく行かないので、
母に、ビデオカメラを買って!とせがんだ。
見て、練習しようと考えたのだ。
今考えても、貧乏な中、どうやって工面したのかわからない(汗)
母は、買ってくれた!

ビデオを手に入れて、自分の姿を初めて見た!
衝撃的だった!

美しく舞っている自分だと思っていたが、現実は、
目も当てられないほどのひどいものだった。
ゴキブリが水に溺れているように、醜いモノだった。

それでも母は、「そんなことない、大丈夫、大丈夫!」と励ましてくれた。
いつも通り。

母はいつも、
「出来るよ!」と声をかけ、信じて支え続けてきてくれた。

母は、自分の希望を常に叶えてきた。
プロのスミングスクールに通いたい!
オリンピックに出るためには、まずはスイミングだ!
この望みも叶えてくれた。

母とともに、名古屋中のスミングスクールを回った。
「オリンピックに出るために、水泳を強化してください!」
行くとこ、行くとこ、まともに相手にされなかったが、
一件、受け入れ先があった。

朝5時から、朝練をやってくれている、プロのスイミングスクール。
その先生は、全てのスクールに断られていた中、「よし、やろう!」と受け入れてくれた。

母と二人三脚の、より一層の努力の日々が始まった。

オリンピック選手は、通常、小学校のころから、頭角を現すもの。
それ以降の成功は、極めて稀で、奇跡的なもの。

しかし、諦めない努力が道を開いた!
二人三脚の努力が報われて、
高校2年生の時に、なんと全国大会準優勝を成し遂げた。
そして、オリンピック選抜のBチームに入り、
アテネオリンピックの強化代表選手になった!

高校生になると、
中学校までと異なり、友人も出来た!

大学受験も大きな夢の一つだった。

名古屋大学への入学は、オリンピックと並ぶ大きな夢の一つであった。
しかし、強化合宿が受験と重なってしまった。
鬼コーチのもと、厳しい合宿中だったので、とても言い出すことが出来ず、
残念ながら受験出来なかった。

しかし、国立の愛知教育大学に見事合格した!
九九すら出来なかったのに!!
夢がいろいろと叶ってきた!!!

その時、慢心してしまい、スキが出来ていた。
オリンピック選考の結果、
選抜9人に残れなかった。
なんと、10人目だった。

挫折した。
そして、




ぐれた。


第五章につづく・・・
  


Posted by m s j 松下自動車 at 00:00講演

2015年02月22日

石黒由美子女史講演 (北京オリンピックシンクロナイズドスミング日本代表) 「夢を諦めない」第三章

石黒由美子女史講演 (北京オリンピック(2008)シンクロナイズドスミング日本代表)
「夢を諦めない 〜諦めなければ必ず道は開かれる〜」


第三章
始まったいじめ
(あるいは、夢ノート、そして母との二人三脚の始まり)



小学校への復帰。
しかも、普通クラスへの。
母は、普通のクラスに戻した。


回復したと言えども、学習生涯は残った。
勉強しても、勉強しても、頭に入らない。
覚えることが出来ない。

九九も覚えられない。

それどころか、
文字を書いても、左右が反転した、鏡文字になってしまう。 
なぜか分からない。

頭の中の回路が、事故の後遺症でうまく機能しなくなってしまっていた。
どうしようもなかった。
上手くいかない。

そんな中、母だけは、諦めなかった。
「大丈夫よ!由美ちゃん!!必ず出来るようになるよ!!!」
「あなたは、すごいんだから!!!」

母の習慣として、いろんな世界の奇跡をスクラップしていた。
新聞などで、有り得ない出来事に関する記事があると、大切にしていた。
世界で起こる奇跡と同じように、
不幸にも障碍者のとなってしまった娘にも、
そんな、同じような奇跡が、起こる信じることに結びついていたとしても、不思議ではない。

常に、
いつだって、
「あなたは、何でも出来るよ!!!」
といつも勇気づけていてくれた。

どんな時も、
いつも明るく、
何ら、
疑問も不安も抱かせないほどに。

しかし、現実も、しっかりと認識していた。

幼い弟妹達がいた。
甘えたい盛り。
そんな弟妹達に、母は、違う認識を伝えていた。

3歳下の弟、6歳下の妹には、
「お姉ちゃんはね、障碍者になってしまったのよ。」
と諭していた。

1年365日、母を求める弟妹達よりも、何よりも優先して、付きっきりだった。
普通なら、弟妹達は、愛情不足でぐれそうなところ、
彼らはそれぞれ、自分の真っすぐに、自分の未来を見据えていた。
彼らは、それぞれ、姉の命を救った医師、
姉の不幸を救った弁護士に憧れ、
その道を着実に歩み始めている。
まっすぐに育っていった。

そんな、小学生のある日、
シンクロを見つけて、母に言った。

由美子「シンクロやりたい!」
母「出来るよ!」

由美子「オリンピックに出たい!」
母「出られるよ!あなたなら!』

そう勇気づけてくれた。
そして、その日から挑戦は始まった。


自分がなんでも出来ると信じ込んでいた自分を、母は、普通クラスに入れた。
何も出来ないことに気づかされた。
現実は、残酷。

「おい、フランケン!!!」
と呼ばれた。

いじめが始まった。

馬鹿にされると、悔しくて、食ってかかってしまった。
その結果、どんどん孤立していった。
勉強も何も分からず、何にもついて行けなかった。
顔に大きな傷を負い、勉強もできない。
やっても、出来ない。

この頃から夢ノートを書き出した。

いろんなことを書いた。
大きな物、遠い未来のこと。夢みたいなこと。

自分のことだけでなく、嫌いな友人のことや、他の人をまじえた夢も書いた。
未来を書いた。

こうしたい。

こうなりたい。

あんなことしたい。

夢が叶うと「ありがとう」と言って、消し込んだ。
「人の役に立ちたい!!!」
そんなことも書いた。

今でも書き続けている。
夢ののノート。
朝晩。


続く・・・。

  


Posted by m s j 松下自動車 at 01:30講演

2015年02月20日

石黒由美子女史講演「夢を諦めない」第二章

石黒由美子女史講演 (北京オリンピック(2008)シンクロナイズドスミング日本代表)
「夢を諦めない 〜諦めなければ必ず道は開かれる〜」



第二章
入院生活
(奇跡を信じる強さをもつ母との二人三脚)

石黒家は、貧乏であった。

スウィムウェアを買う金銭的ゆとりはなかった。
シンクロをやっている多くの家庭は、裕福でゆとりがある。
そうでないと、なかなか、こういったスポーツは出来ない。
貧乏な石黒家では、スイムウェアは、母と娘の手作りであった。

このセミナー会場に持ってきた水着も、母親と二人で作った手作り。
生地選びから、デザインまで全て。
母と二人で作った、この水着を着て、北京オリンピックでソロを戦った。


鬼子母神のような母親で、この講演も本来なら母が自分で話した方がいいくらい、
主役は母であると思えるほどの、母の明るく前向きでひた向きな努力。

事故の起きたその日から、奇跡を信じる母の尽力が始まった。

健常者と同様の暮らしが出来るまで、決して、諦めることなく、
信じる力で、由美子の全ての夢を叶えられるよう、その日まで。

二人の二人三脚が始まった。

三日間の昏睡から醒めてみると、
なぜだかその時、
とても暖かい空気で満ちていたように記憶している。

長い入院生活。
しかし、苦しくなかった。

信じられないことに、
あれほどの重傷を負いながら、
小学校5年生の時まで、
自分が障碍者であるとことを意識したことがなかった。
母がそう感じさせなかった。

「あなたはスーパーマン!何でも出来る!」
「そして、世界で一番可愛い子。」

母はいつも、そう言ってくれていた。
だから、そう思っていた!!
そう、自分は、何でも出来るんだ!!!

本当は、現実には大変なことが起こっていた。
記憶障害、学習障害、視力や聴力の問題、三半規管異常、顔面麻痺など。

しかし、母は、決してそんな素振りもなく、
「由美ちゃん!スゴイね。何でも出来るよ!」
そう言ってくれていた。

長い入院生活では、自由奔放に生活していた。
不幸を感じることなどなかった。
愉快な思い出もたくさんある。

夜に、車いすで、夜、走り回っていた。
走りたくなってしまうもの!

あの病院は、夜になると少女の幽霊が走り回っている、と噂になった(笑)。

病棟は、小児科ではなく、重症だったため、
最もひどいけが人のいる病棟にいた。

一番仲が良かったのは、全身ケロイドの、あだ名はみのさん。
理由は、全身ケロイドで、みの虫みたいだったから。
子供ならではの、残酷さ(笑)
みなが、受け入れてくれていた。

病院横の川にざりがにがたくさんいたから、
みのさんと二人で、たくさん取った。
そして、ロブスターのように料理をして、病棟の患者さんに配り食べさせた。

当たり前だが、大目玉を食らった。

「お母さん!お嬢さんが、病院の汚水を流している排水路のザリガニを患者さんに食べさせるんですよ!」
母は、呼び出され、当然、病院に怒られた。
今となっては、笑い話。

けがは本当に重篤で、重症であったが、
奇跡的驚異的な回復力をみせた。

傷だらけの口内もなんのその、10日で普通食を食べ始めた。
網膜剥離だったが、0.1まで見えるようになった。
視野狭窄ではあったが、0が1となったのだ。
見えるようになってきた!

事故当時のリハビリは、現代の社会復帰までがリハビリである、という考え方とは異なり、
ある程度良くなると、退院となる。

入院生活は、終わりを告げることとなった。
これ以上、手をかけることが無くなった症状固定な状況になったからだ。

母のおかげで、入院中は、自分が障碍者であるだなんて、微塵も感じなかった。
明るく楽しく過ごすことが出来た。

しかし、退院。
そして残酷な現実を知らされることとなる。
小学校への復帰だ。


第三章へ続く・・・。

  


Posted by m s j 松下自動車 at 00:00講演

2015年02月19日

石黒由美子女史(元オリンピック選手)講演「夢を諦めない」第一章

2008年の北京オリンピック、
シンクロナイズドスミング日本代表の、
石黒由美子さんが、JCA卒業生の集いで、素晴らしい講演をしてくださいました。

本当に素晴らしい生き方。
私の人生は、この日の講演を境に、確実に変化し始めました。

この感動が伝えることは困難ですが、
今日から、6回に分けて、
私の人生を変えるスイッチとなった講演をテキストにてお届けします。


小学校二年生で、大事故に遭い、障碍者となってしまうも、
お母様との二人三脚と、不屈の精神力で、健常者の生活を送れるようになっただけでなく、
国立大学入学、そしてオリンピック選手に選ばれる偉業を成し遂げた人生。

そして、今なお、輝いている。

通常であれば、誰もが諦めてしまう人生の始まりを、
誰にも成し遂げられない人生の始まりに変えてしまった、
母と娘の二人三脚。

常に夢を持ち続け、
支える人がいて、
そして信じる気持ちで、人生を自分のモノにしてきた壮絶な生き方。

夢を持つこと。
夢を持ち続けること。
その大切さ。

そして、逃げずに立ち向かうこと。
信じる力の真のすごさを、
学びました。

激しい人生を行きて来た石黒さんですが、
それが故なのか、ご本人は、本当に柔らかいお人柄。
そして、大事故に遭われたにもかかわらず、美しい。

生き方だけでなく、容姿だけでなく、心が美しい人が纏う美しさ。

私の人生は、本当に、この日を境に変化し始めています。
石黒さんありがとうございます。




石黒由美子女史講演 (北京オリンピック(2008)シンクロナイズドスミング日本代表)
「夢を諦めない 〜諦めなければ必ず道は開かれる〜」

第一章
事故による人生のリセット
(大きな試練の始まり)


小学二年生(7歳)の時、人生がリセットされた。

大好きだったクラッシックバレーの帰り。
大好きなピンクのバレエ着を着ていた。
雨になったその日、母が迎えにきてくれた。

クルマに乗り込み、シートベルトを着用し、
さあ出発という時に、
前方から、
反対車線に飛び出たクルマが、
時速80キロで正面衝突してきた。

助手席に座っていたが、あまりの衝撃で体は前に吹っ飛び、
フロントガラスに激突、
そして跳ね返り、再び座席に戻ってきた。

母が、叫ぶ。
「由美ちゃん!!!大丈夫?!!由美ちゃん!!!」
口の中は血だらけ、
顔面はガラスだらけ。
指だけ動いたので、オーケーマークを出して安心させてみせた。

救急車を呼べど、たらい回し。
受け入れ先が、あまりの重傷に受け入れ拒否したからだ。
母の叫び声が響く・・・。
「由美ちゃんが死んじゃうー!!!」

死ぬ?
私?
死んじゃう?

母がそう叫ぶのも当たり前。

顔面粉砕骨折。
網膜剥離。
右目のまぶたが飛び散り、
右顔の口は、耳まで裂けていた。

顔面は540針、口の中は260針を縫い、三日後に意識を取り戻した。
暗い室内を不安に思い、
「電気をつけて」と言った。
「由美ちゃん、電気は付いているのよ。」と母は言った。
目が見えなかったのだ・・・。

そして、驚くことが判明した。
事故以前の記憶が失われていた。

記憶喪失、
顔面麻痺、
難聴、
視力障害、
学習障害、
記憶障害、
三半規管異常。
右目は、まぶたがちぎれてしまっており、開いたまま閉じることさえ出来ない。
医者も含めて誰もが諦めた。

一生元の体には戻れない。
誰もがそう、思った。

たった一人、母親だけが諦めなかった。
赤ちゃんが、生まれてきたと思って、悲観することなく育てよう、
そう思ってくれた、母だけが、諦めなかった。

しかし、現実には、記憶は消えてしまい、絶望的なの障害と傷だけが残っただけだった。

本当に、人生はリセットされてしまったのだ。


第二章に続く・・・。
  


Posted by m s j 松下自動車 at 00:00講演