2015年02月20日
石黒由美子女史講演「夢を諦めない」第二章
石黒由美子女史講演 (北京オリンピック(2008)シンクロナイズドスミング日本代表)
「夢を諦めない 〜諦めなければ必ず道は開かれる〜」
第二章
入院生活
(奇跡を信じる強さをもつ母との二人三脚)
石黒家は、貧乏であった。
スウィムウェアを買う金銭的ゆとりはなかった。
シンクロをやっている多くの家庭は、裕福でゆとりがある。
そうでないと、なかなか、こういったスポーツは出来ない。
貧乏な石黒家では、スイムウェアは、母と娘の手作りであった。
このセミナー会場に持ってきた水着も、母親と二人で作った手作り。
生地選びから、デザインまで全て。
母と二人で作った、この水着を着て、北京オリンピックでソロを戦った。
鬼子母神のような母親で、この講演も本来なら母が自分で話した方がいいくらい、
主役は母であると思えるほどの、母の明るく前向きでひた向きな努力。
事故の起きたその日から、奇跡を信じる母の尽力が始まった。
健常者と同様の暮らしが出来るまで、決して、諦めることなく、
信じる力で、由美子の全ての夢を叶えられるよう、その日まで。
二人の二人三脚が始まった。
三日間の昏睡から醒めてみると、
なぜだかその時、
とても暖かい空気で満ちていたように記憶している。
長い入院生活。
しかし、苦しくなかった。
信じられないことに、
あれほどの重傷を負いながら、
小学校5年生の時まで、
自分が障碍者であるとことを意識したことがなかった。
母がそう感じさせなかった。
「あなたはスーパーマン!何でも出来る!」
「そして、世界で一番可愛い子。」
母はいつも、そう言ってくれていた。
だから、そう思っていた!!
そう、自分は、何でも出来るんだ!!!
本当は、現実には大変なことが起こっていた。
記憶障害、学習障害、視力や聴力の問題、三半規管異常、顔面麻痺など。
しかし、母は、決してそんな素振りもなく、
「由美ちゃん!スゴイね。何でも出来るよ!」
そう言ってくれていた。
長い入院生活では、自由奔放に生活していた。
不幸を感じることなどなかった。
愉快な思い出もたくさんある。
夜に、車いすで、夜、走り回っていた。
走りたくなってしまうもの!
あの病院は、夜になると少女の幽霊が走り回っている、と噂になった(笑)。
病棟は、小児科ではなく、重症だったため、
最もひどいけが人のいる病棟にいた。
一番仲が良かったのは、全身ケロイドの、あだ名はみのさん。
理由は、全身ケロイドで、みの虫みたいだったから。
子供ならではの、残酷さ(笑)
みなが、受け入れてくれていた。
病院横の川にざりがにがたくさんいたから、
みのさんと二人で、たくさん取った。
そして、ロブスターのように料理をして、病棟の患者さんに配り食べさせた。
当たり前だが、大目玉を食らった。
「お母さん!お嬢さんが、病院の汚水を流している排水路のザリガニを患者さんに食べさせるんですよ!」
母は、呼び出され、当然、病院に怒られた。
今となっては、笑い話。
けがは本当に重篤で、重症であったが、
奇跡的驚異的な回復力をみせた。
傷だらけの口内もなんのその、10日で普通食を食べ始めた。
網膜剥離だったが、0.1まで見えるようになった。
視野狭窄ではあったが、0が1となったのだ。
見えるようになってきた!
事故当時のリハビリは、現代の社会復帰までがリハビリである、という考え方とは異なり、
ある程度良くなると、退院となる。
入院生活は、終わりを告げることとなった。
これ以上、手をかけることが無くなった症状固定な状況になったからだ。
母のおかげで、入院中は、自分が障碍者であるだなんて、微塵も感じなかった。
明るく楽しく過ごすことが出来た。
しかし、退院。
そして残酷な現実を知らされることとなる。
小学校への復帰だ。
第三章へ続く・・・。
「夢を諦めない 〜諦めなければ必ず道は開かれる〜」
第二章
入院生活
(奇跡を信じる強さをもつ母との二人三脚)
石黒家は、貧乏であった。
スウィムウェアを買う金銭的ゆとりはなかった。
シンクロをやっている多くの家庭は、裕福でゆとりがある。
そうでないと、なかなか、こういったスポーツは出来ない。
貧乏な石黒家では、スイムウェアは、母と娘の手作りであった。
このセミナー会場に持ってきた水着も、母親と二人で作った手作り。
生地選びから、デザインまで全て。
母と二人で作った、この水着を着て、北京オリンピックでソロを戦った。
鬼子母神のような母親で、この講演も本来なら母が自分で話した方がいいくらい、
主役は母であると思えるほどの、母の明るく前向きでひた向きな努力。
事故の起きたその日から、奇跡を信じる母の尽力が始まった。
健常者と同様の暮らしが出来るまで、決して、諦めることなく、
信じる力で、由美子の全ての夢を叶えられるよう、その日まで。
二人の二人三脚が始まった。
三日間の昏睡から醒めてみると、
なぜだかその時、
とても暖かい空気で満ちていたように記憶している。
長い入院生活。
しかし、苦しくなかった。
信じられないことに、
あれほどの重傷を負いながら、
小学校5年生の時まで、
自分が障碍者であるとことを意識したことがなかった。
母がそう感じさせなかった。
「あなたはスーパーマン!何でも出来る!」
「そして、世界で一番可愛い子。」
母はいつも、そう言ってくれていた。
だから、そう思っていた!!
そう、自分は、何でも出来るんだ!!!
本当は、現実には大変なことが起こっていた。
記憶障害、学習障害、視力や聴力の問題、三半規管異常、顔面麻痺など。
しかし、母は、決してそんな素振りもなく、
「由美ちゃん!スゴイね。何でも出来るよ!」
そう言ってくれていた。
長い入院生活では、自由奔放に生活していた。
不幸を感じることなどなかった。
愉快な思い出もたくさんある。
夜に、車いすで、夜、走り回っていた。
走りたくなってしまうもの!
あの病院は、夜になると少女の幽霊が走り回っている、と噂になった(笑)。
病棟は、小児科ではなく、重症だったため、
最もひどいけが人のいる病棟にいた。
一番仲が良かったのは、全身ケロイドの、あだ名はみのさん。
理由は、全身ケロイドで、みの虫みたいだったから。
子供ならではの、残酷さ(笑)
みなが、受け入れてくれていた。
病院横の川にざりがにがたくさんいたから、
みのさんと二人で、たくさん取った。
そして、ロブスターのように料理をして、病棟の患者さんに配り食べさせた。
当たり前だが、大目玉を食らった。
「お母さん!お嬢さんが、病院の汚水を流している排水路のザリガニを患者さんに食べさせるんですよ!」
母は、呼び出され、当然、病院に怒られた。
今となっては、笑い話。
けがは本当に重篤で、重症であったが、
奇跡的驚異的な回復力をみせた。
傷だらけの口内もなんのその、10日で普通食を食べ始めた。
網膜剥離だったが、0.1まで見えるようになった。
視野狭窄ではあったが、0が1となったのだ。
見えるようになってきた!
事故当時のリハビリは、現代の社会復帰までがリハビリである、という考え方とは異なり、
ある程度良くなると、退院となる。
入院生活は、終わりを告げることとなった。
これ以上、手をかけることが無くなった症状固定な状況になったからだ。
母のおかげで、入院中は、自分が障碍者であるだなんて、微塵も感じなかった。
明るく楽しく過ごすことが出来た。
しかし、退院。
そして残酷な現実を知らされることとなる。
小学校への復帰だ。
第三章へ続く・・・。
Posted by m s j 松下自動車 at 00:00
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