2012年10月20日
国際人って何?
これをあけてしまった方、
この投稿は、流してくださいね
私的な考えですので
さて、最近のマスコミの偏向ぶりには、ほとほと呆れてしまいます。
今夜は、せっかく早く帰って来て、
久々にテレビをつけてみると、
NHKが、反日外国人のアグネスなんかを出演させて、
日本をおとしめている。
しかも、これからの日本を担う若者を。
この公共放送の目的は一体何なのだろう?と思いながら、見ていた。
しかし、次第に、思考はそこから、マスコミの権力についての考察へと流れて行った。
番組では・・・。
番組では、若者や学生に「内向き」というレッテル張りをして、
世界に通用しない、と嘆いている。
「国際人」とやらが育たない、と嘆いている。
「20年前は、日本の国際競争力は1位だったが、
2012年は27位にまで落ちてしまった。」
「ダメな若者達が溢れている。
このままでは、日本はダメになる。」
と強調しています。
確かに、現在の日本はかつての日本のようではない、というのには同意します。
しかし、時系列的な経済の変遷、地球規模での競争の拡大、
そして第二次世界大戦以後、初めて明確に分類されつつある全地球規模での人種的階層社会の出現。
現在の経済力を、若者たちを中心とした世代の力不足と嘆く前に、
上述したような変化の流れを無視して話を進めるのは、二者間の対話を装った、マスコミの暴力なのでは。
例えば、
この番組では、1985年のプラザ合意は完全なまでに無視されています。
プラザ合意までは、
1ドルが235円でした。
しかし合意後、急激に円高に触れて行きます。
(下図参照)
そして、その後の政策や日銀の誤りがバブルを呼び、
日本を疲弊させました。
この事実を考慮せずに、勝手に議論を進めているのは、何か意図があってのことと感じます。
円の価値の変化を勘案せずに、現在のみを思考の軸するのは、歴史や経済の観点からも誤りであり、
あまりにも帰納法的な一般化と言えます。
そしてさらに、現在の日本は、
世界経済の避難口として、円高がさらに進行している状況にあります。
これは、若者たちに、仮に外向きな国際人が多かったとして、そう簡単には太刀打ち出来ない為替レート。
この事実のどこをどうやったら、20年前と同列視して批判出来るのだろうか?
そしてここで、
さらに、
ちょっと、ちょっと、な面が。
ここ過去20年は、「失われた20年」と呼ばれている時代です。
(現在は、失われた30年に突入している、と言われているけど・・・)
しかしその間、日本は、20年連続の世界最大の債券国であり続け、
600兆円を超す対外資産を有しています。
どうしてNHKは、この現状は鑑まないのでしょうか?
NHKは、表面上は、日本国を心配しています。
しかし、
この番組を通して強く感じるのは、
一方的な仮説に基づいた現状認識の下、機能法的に日本人の若者を卑下し、
最終的には、自信を喪失させるのが、NHKの目的だということです。
番組の途中では、ICU(国際基督教大学)なんかを引き合いに出して、
一般の大学生と比較しています。
一体全体、どういうつもりなのか全く分かりません。
ここでちょっと。考えみたいのです。
果たして、
一体、どれほどの日本人が海外へ進出していくのか?
海外で通用する人間が日本を牽引するのか?
番組では、国際化とか国際人とか、
英語が話せないとか、
海外に行けない人間達は、劣等人種だと言わんばかり。
ましてや、そもそも、「国際人」だなんて定義をした単語は、
日本にしか存在しない。
アメリカ国籍を持つ人は、アメリカ人。
インドネシア国籍を持つ人は、インドネシア人。
日本国籍を持つ人は、日本人なのです。
「国際人」とやらが、
コツコツと国内で働く日本人よりも優れている。
そして、そうでなければならない。
この理論の展開は、
あまりにも卑劣なバイアスのかかった一方的な考え方として、私には映りました。
かつて、私は、20年以上前に、カナダのトロントに住んでいた経験があります。
それはそれで、良い経験になりました。
また、その時の生活のおかげで、英語にはあまり苦労しません。
しかし、一般的な日本人が、
どんなに英語が話せても、残念ながら、向こうの一般人以下です。
英語は話せた方がいいかもしれないが、
言語は、ただのツール、道具。
大事なのは、その人が持っている能力であり、人格です。
そして多くの場合、人格は、学歴や語学力などとは関係ありません。
私は、以前の銀行員時代、そして現在は仕事の関係上、
超一流大学を卒業した超優良企業で働く人々と接触する機会が多くあります。
(その中には超有名人もいらっしゃいました。)
しかし、その中には、
頭がいい馬鹿もたくさんいるし、
がっかりするような薄っぺらい人が、
驚くほどたくさんいました。
(もちろん、尊敬してやまない素晴らしい方もいらっしゃるし、相対的には多いのは事実。)
確かに外国人は日本人とは異なり、
自己主張は激しく、意思を明確に、はっきりと自己表現します。
そこでは、日本人的な感覚は通用しない。やられてしまう。
彼らは日本人よりも、
しぶとく、
そして、
ふてぶてしい(良くも悪くも)。
世界は小さくなり、競争相手は世界中にいます。
私は、世界で戦える人材の育成や必要性を否定する気は、毛頭ない。
日本人も戦わなければならないのは、残酷で不可避な事実。
だが、99%の日本人のは、この日本で日々を戦い、幸せを感じたりしながら、
その生涯を終える。
そしてこれまでも、今現在も、そしてこれからも、
日本を支えているのは、
日本に住んで、
日々を努力して生きている人々だというのが現実です。
そして、その日々の中から、発明、発見、技術革新がおこり、
そして勤勉な労働者の日々の努力が生産性を高め、
豊かな日本をつくりあげている。
もし、若者の中に「国際人」とやらが育っておらず、
国際競争力が低下していることを問題にするのなら、
若者たちではなく、
政治、教育、社会、国家、
そしてそういった社会を形作ってきた私たち、大人たちを糾弾すべきなのではないでしょうか。
一方的で、ごく一部の考え方を、
さも、
全体の議論や進むべき道として誘導し、
スライドして、日本の問題だとしている。
しかも議論の前提となる、現状の共有化がまるで出来ていない。
それゆえ、NHKには、この深刻でデリケートな問題を扱う資格はないと、私は思います。
(くだらないバラエティ番組ならいざ知らず。)
問題があるのは、むしろ、この番組とNHKなのではないのでは。
問題でないことを問題とすること自体に問題がある。それが派閥をつくり、他者をないがしろにする。
この番組のつくりでおいて、若い日本人を勇気づけることをせず、
自信を喪失させて、どうするつもりなのだろう?
数年前の政権交代時のように、冷徹に事実を歪曲し、隠蔽し、民主党礼賛をして、
ありもしない世論を仕立て上げたマスコミ。
彼らは何も進歩していない。
批判されることの無い、守られた立場は、こうも堕落につながってしまうのか?。
彼らは、フーコーの権力論にある「規律の決定機関」として、自らを位置づけ、
「権力はみずから規律(法律)を作り出し、人々の合法不法を決める。
個人の判断と理解は権力が定めた秩序と規律の中で自らを理解する。」
を実践しているのだろうか?
私には、彼らが上位の者として「装置の統一性」の中に、
その下位に我々を位置づけ、
社会の善し悪しを判断する基準を奪おうとしているように思えてならない。
若者を鼓舞するためにエールを送っているとするならば、
あまりにもお粗末、としか言いようが無い。
この投稿は、流してくださいね
私的な考えですので
さて、最近のマスコミの偏向ぶりには、ほとほと呆れてしまいます。
今夜は、せっかく早く帰って来て、
久々にテレビをつけてみると、
NHKが、反日外国人のアグネスなんかを出演させて、
日本をおとしめている。
しかも、これからの日本を担う若者を。
この公共放送の目的は一体何なのだろう?と思いながら、見ていた。
しかし、次第に、思考はそこから、マスコミの権力についての考察へと流れて行った。
番組では・・・。
番組では、若者や学生に「内向き」というレッテル張りをして、
世界に通用しない、と嘆いている。
「国際人」とやらが育たない、と嘆いている。
「20年前は、日本の国際競争力は1位だったが、
2012年は27位にまで落ちてしまった。」
「ダメな若者達が溢れている。
このままでは、日本はダメになる。」
と強調しています。
確かに、現在の日本はかつての日本のようではない、というのには同意します。
しかし、時系列的な経済の変遷、地球規模での競争の拡大、
そして第二次世界大戦以後、初めて明確に分類されつつある全地球規模での人種的階層社会の出現。
現在の経済力を、若者たちを中心とした世代の力不足と嘆く前に、
上述したような変化の流れを無視して話を進めるのは、二者間の対話を装った、マスコミの暴力なのでは。
例えば、
この番組では、1985年のプラザ合意は完全なまでに無視されています。
プラザ合意までは、
1ドルが235円でした。
しかし合意後、急激に円高に触れて行きます。
(下図参照)
そして、その後の政策や日銀の誤りがバブルを呼び、
日本を疲弊させました。
この事実を考慮せずに、勝手に議論を進めているのは、何か意図があってのことと感じます。
円の価値の変化を勘案せずに、現在のみを思考の軸するのは、歴史や経済の観点からも誤りであり、
あまりにも帰納法的な一般化と言えます。
そしてさらに、現在の日本は、
世界経済の避難口として、円高がさらに進行している状況にあります。
これは、若者たちに、仮に外向きな国際人が多かったとして、そう簡単には太刀打ち出来ない為替レート。
この事実のどこをどうやったら、20年前と同列視して批判出来るのだろうか?
そしてここで、
さらに、
ちょっと、ちょっと、な面が。
ここ過去20年は、「失われた20年」と呼ばれている時代です。
(現在は、失われた30年に突入している、と言われているけど・・・)
しかしその間、日本は、20年連続の世界最大の債券国であり続け、
600兆円を超す対外資産を有しています。
どうしてNHKは、この現状は鑑まないのでしょうか?
NHKは、表面上は、日本国を心配しています。
しかし、
この番組を通して強く感じるのは、
一方的な仮説に基づいた現状認識の下、機能法的に日本人の若者を卑下し、
最終的には、自信を喪失させるのが、NHKの目的だということです。
番組の途中では、ICU(国際基督教大学)なんかを引き合いに出して、
一般の大学生と比較しています。
一体全体、どういうつもりなのか全く分かりません。
ここでちょっと。考えみたいのです。
果たして、
一体、どれほどの日本人が海外へ進出していくのか?
海外で通用する人間が日本を牽引するのか?
番組では、国際化とか国際人とか、
英語が話せないとか、
海外に行けない人間達は、劣等人種だと言わんばかり。
ましてや、そもそも、「国際人」だなんて定義をした単語は、
日本にしか存在しない。
アメリカ国籍を持つ人は、アメリカ人。
インドネシア国籍を持つ人は、インドネシア人。
日本国籍を持つ人は、日本人なのです。
「国際人」とやらが、
コツコツと国内で働く日本人よりも優れている。
そして、そうでなければならない。
この理論の展開は、
あまりにも卑劣なバイアスのかかった一方的な考え方として、私には映りました。
かつて、私は、20年以上前に、カナダのトロントに住んでいた経験があります。
それはそれで、良い経験になりました。
また、その時の生活のおかげで、英語にはあまり苦労しません。
しかし、一般的な日本人が、
どんなに英語が話せても、残念ながら、向こうの一般人以下です。
英語は話せた方がいいかもしれないが、
言語は、ただのツール、道具。
大事なのは、その人が持っている能力であり、人格です。
そして多くの場合、人格は、学歴や語学力などとは関係ありません。
私は、以前の銀行員時代、そして現在は仕事の関係上、
超一流大学を卒業した超優良企業で働く人々と接触する機会が多くあります。
(その中には超有名人もいらっしゃいました。)
しかし、その中には、
頭がいい馬鹿もたくさんいるし、
がっかりするような薄っぺらい人が、
驚くほどたくさんいました。
(もちろん、尊敬してやまない素晴らしい方もいらっしゃるし、相対的には多いのは事実。)
確かに外国人は日本人とは異なり、
自己主張は激しく、意思を明確に、はっきりと自己表現します。
そこでは、日本人的な感覚は通用しない。やられてしまう。
彼らは日本人よりも、
しぶとく、
そして、
ふてぶてしい(良くも悪くも)。
世界は小さくなり、競争相手は世界中にいます。
私は、世界で戦える人材の育成や必要性を否定する気は、毛頭ない。
日本人も戦わなければならないのは、残酷で不可避な事実。
だが、99%の日本人のは、この日本で日々を戦い、幸せを感じたりしながら、
その生涯を終える。
そしてこれまでも、今現在も、そしてこれからも、
日本を支えているのは、
日本に住んで、
日々を努力して生きている人々だというのが現実です。
そして、その日々の中から、発明、発見、技術革新がおこり、
そして勤勉な労働者の日々の努力が生産性を高め、
豊かな日本をつくりあげている。
もし、若者の中に「国際人」とやらが育っておらず、
国際競争力が低下していることを問題にするのなら、
若者たちではなく、
政治、教育、社会、国家、
そしてそういった社会を形作ってきた私たち、大人たちを糾弾すべきなのではないでしょうか。
一方的で、ごく一部の考え方を、
さも、
全体の議論や進むべき道として誘導し、
スライドして、日本の問題だとしている。
しかも議論の前提となる、現状の共有化がまるで出来ていない。
それゆえ、NHKには、この深刻でデリケートな問題を扱う資格はないと、私は思います。
(くだらないバラエティ番組ならいざ知らず。)
問題があるのは、むしろ、この番組とNHKなのではないのでは。
問題でないことを問題とすること自体に問題がある。それが派閥をつくり、他者をないがしろにする。
この番組のつくりでおいて、若い日本人を勇気づけることをせず、
自信を喪失させて、どうするつもりなのだろう?
数年前の政権交代時のように、冷徹に事実を歪曲し、隠蔽し、民主党礼賛をして、
ありもしない世論を仕立て上げたマスコミ。
彼らは何も進歩していない。
批判されることの無い、守られた立場は、こうも堕落につながってしまうのか?。
彼らは、フーコーの権力論にある「規律の決定機関」として、自らを位置づけ、
「権力はみずから規律(法律)を作り出し、人々の合法不法を決める。
個人の判断と理解は権力が定めた秩序と規律の中で自らを理解する。」
を実践しているのだろうか?
私には、彼らが上位の者として「装置の統一性」の中に、
その下位に我々を位置づけ、
社会の善し悪しを判断する基準を奪おうとしているように思えてならない。
若者を鼓舞するためにエールを送っているとするならば、
あまりにもお粗末、としか言いようが無い。
Posted by m s j 松下自動車 at 23:50
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